五島福江の趣 [長崎]
よそ者から見れば、長崎県は九州の端っこに見えます。
しかし、住んでいる人から見れば、長崎県は海を取り囲むように存在していると見えるかもしれません。
県をまたぐ陸の移動は便利ではないですが、県内の移動は鉄道も路面電車もバスも、そして船も活発に行き来している印象があります。
特に長崎県は島が多いため、公共交通機関としての船が便利です。
五島は長崎市の西方にある大きな島々で、天気予報などでも別に示されるなど、一つの地域を形成しています。
長崎市側から向かうには3つのルートがあります。
飛行機:¥11600 30分
ジェットフォイル:¥5370 85分
フェリー:¥2180 190分
ジェットフォイルは海の新幹線とでも言いましょうか、海上を浮上しながら80km/hで進む乗り物です。
今回は日帰りということでジェットフォイルを利用しました。
しかし、数百人の定員があると思うのですが、五島へ向かう便はほぼ満席です。
それだけ交通機関として日常的に使われているということです。
安全のために飛行機のようにシートベルトが必須の乗り物ですが、車窓の景色が飛ぶように流れる様は船のイメージを覆しました。
福江港に着くと、すぐ近くに五島藩の石田城の跡があります。
城域内の資料館では入館すると直ぐに「バラモンの空」という映像作品を見せられるのですが、なかなかの出来でした。
島の子供と都会の子供の所作がきれいに作り込まれていて、主人公は島に慣れていない転校生だということがよく分かりました(ただし、転校初日から授業中に寝るやつはいない・・・)
そして、バラモン凧という島に伝わる工芸品が、色使いから東南アジアや中国に起源を持つものに見えるのですが、その主題は鬼と渡辺綱という“和”であることに驚きました。
ここはやはり日本なんですね。
城には江戸末期の藩主の隠居所が残り、山の手には写真のような武家屋敷の名残が残ります。
見づらいですが、この石垣の上には丸い礫が並べられ、その端をかまぼこ型の石で抑えているのが特徴です。
どちらも趣深い雰囲気が残っているところでした。
五島は一時間以上掛けて海を渡らなければならない、観光のハードルが高い地ですが、他にもキリシタン関係の遺跡も多く、見る場所も枚挙に暇がありません。
宿泊してゆっくり見るのがオススメです。
五島観光歴史資料館
9:00~16:30 230円
山王神社 片足の二の鳥居 [長崎]
長崎はメインストリートから外れるとすぐに急峻な坂が現れ、移動には階段を登らねばなりません。
その坂の一つを進むと異質な構造物が現れてきます。
片足の鳥居です。
これは山王神社の鳥居なのですが、1945年の長崎に原爆が落ちたときの爆風でこのような姿になってしまったものです。
爆風のすさまじさを感じさせます。
そもそも辛うじて残ったのも、爆心地から1キロ以内という近距離でありながら、爆心地と平行に立っていたためだということです。
他の鳥居の中には完全倒壊し、柱が慰霊碑とされているものもあります。
山王神社の境内には、戦後直ぐの鳥居周辺の写真が展示されていましたが、本当に辺りには何もありません。
翻って現在、鳥居はその存在が希薄となるほどに住宅街に埋もれています。
平和になって、生活が豊かになった証とも言えるのですが、戦争の記憶も同様に目立たなくなって忘れられていくのかと思うとなんとも言えないですね。
山王神社の境内には原爆を生き抜いた、大きな2本のクスノキも健在です。
原爆によって上部が欠けてしまいましたが、それでも強く枝を伸ばしています。
数年前にこのクスノキを調べたところ、木のウロから石が出てきたということでした。
これは爆風で巻き上げられたもののようです。
人の頭よりも大きい石が飛んできたのです。
こうした不屈の精神を体現するかのようなクスノキの様子にあやかり、山王神社では「大くす守」 も販売しています。
商魂もたくましいです。
山王神社
最寄り電停は長崎電気軌道の大学病院前です。
平戸 幸橋 [長崎]
平戸市は長崎県の北の方にある市です。
歴史の授業で南蛮人と貿易をした港として登場するので名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。
よく出島と混同されますが、出島は長崎市です。
この平戸は鎌倉時代から松浦氏によって治められてきました。
松浦氏は松浦水軍として海を支配していた一族で、出自は渡辺綱につながります。
水軍と言ってもイメージとしては海賊に近いかもしれません。
南蛮人が訪れる以前も中国との貿易で栄えていて、戦国期も松浦興信や隆信といった当主が治めていました。
さて、当時は主従のつながりを表すものとして名前の一字「偏諱」を与える文化がありました。
戦国中期~後期の松浦氏の当主の名は、弘定―興信―隆信でした。
これは山口の大内氏の名前から「偏諱」をもらって付けられた名で、当時の大内氏は政弘―義興―義隆が当主でした。
対応させるとはっきり分かりますね。
どうして山口から遠く離れた平戸の当主に主従関係の印があるのかというと、当時の大内氏は日明貿易を盛んに行っていたため、その航路上にある平戸を特に重要視していたようです。
大内家が滅んだ後は、龍造寺氏などの進行を乗り切り最終的に松浦氏は平戸藩の藩主になりました。
そして、江戸中期になると甲子夜話で有名な松浦静山を輩出します。
平戸城に架かる橋は江戸時代には珍しく石で造られた橋で幸橋といい、1702年に架けられたまま現在でも残っています。
車は通ることが出来ない歩行者専用の橋ですが、周りの石垣も含めて時代を感じさせる趣のあるものとなっています。
木の橋ではなくオランダの技術を転用しての石橋、平戸の先進性が感じられます。
起伏が多く農作物としては決して豊かとはいえない土地ですが、海路を生かした貿易や海産物が生活を支えていたようです。
そのため、個性豊かな食文化が存在し、カスドースを始めとする菓子やじゃがいもうどんなどの馴染みのない面白い料理が伝わります。
是非とも何度も訪れて様々な料理を味わいたいところです。
最寄りバス停は西肥バスの平戸市役所前です。
最寄り駅は松浦鉄道のたびら平戸口駅ですが、そこからは距離があるのでお勧めしません。
ちなみにこの駅は日本最西端の駅です。