イバライガー キャラメルポップコ→ン [茨城]
昨今、ゆるきゃらが各地で流行りましたが、同時にご当地ヒーローなるものも登場しています。
その中でも茨城県のイバライガーは知名度がある方なのではないでしょうか。
設定もきちんと練られているようです。
さて、最近スーパーへ行ったところ上の写真のようなお菓子が売られていました。
ご当地キャラもスナック菓子があるのですね。
まだ食べてないので味はわかりませんが、想像するところ既製品のパッケージだけを差し替えたものでしょうか。
しかし、最も気になったところは製造者です。
茨城県のご当地ヒーローにも関わらず、高知県の会社でした。
このスーパーの売場にはもう一製品ご当地スナック「いばらきのサクッふわっチップ」が売られていました。
こちらは特にヒーロー物というわけではないのですが、同じように製造者などを見てみると・・・
製造者-秋田県
販売者-北海道 です。
両製品合わせると、北で南でグローバルな製造が行われていますね。
もはや茨城県色が希薄すぎます(一応、後者は茨城県産米粉使用との記載)。
お土産で買ってくるような御当地限定味の製品が、実は埼玉県や栃木県で生産されていることを思うと、これも驚くようなことではないのでしょうが、なんか詐称された気分になります。
茨城県にはスナック菓子を作るメーカーは無いのでしょうか。
いえいえ、そんなことはないのです。
駄菓子生産では結構大手の「菓道」があるので、いくらでもやりようはあると思われます。
日本全国を飛び回る製品でもネタとしていいのですが、オンリー茨城の製品も乙な気がします。
春の中舘観音寺 [茨城]
今では筑西市と呼ばれるようになってしまいましたが、数年前までこの地域は下館市でした。
駅名にはそのまま下館駅として残っているので、馴染みが薄れた感じは少ない気もします。
この“下館”ですが、「下」と言うくらいですから、歴史上「上」と「中」も存在していました。
“中館”は今も地名として残っています。
そこにある歴史ある寺が観音寺です。
ちなみに“上館”の方ですが、こちらは地名には残っていません。
今の久下田(真岡市)ではないかという話を聞いたことがあります。
中館の観音寺は五行川沿いの高台に作られていて、境内には僅かな起伏があります。
それが絶妙の風景を生み出していて、最も高い場所に観音堂があります。
そしてその南側の離れたところに本堂があります。
冬から春に移り変わる季節の爽やかさが境内に似合いますね。
ツクシやクサイチゴといった植物や、カタツムリもいました。
のんびりと落ち着いたいい雰囲気のお堂です。
ちなみに写真には国宝の石碑が見えますが、実はこのお寺には国宝はありません。
これは戦前の旧区分の国宝で現在の重要文化財のようです。
少し経てば再び国宝にランクアップするのでしょうか。
中には入ることができませんので、国宝の詳細は分かりませんでした。
また、ここは伊達氏縁の地なのです。
一説に寄ると伊達氏はここから鎌倉時代に東北征伐に出発し、その後東北に拠点を移したと言われています。
今はそんなことを感じさせるものもないですし、取り上げられることも滅多に無いので、意外な印象もあります。
隣の五行川沿いの桜並木もいい場所ですね。
植え方に工夫があるのか、たまたま木の生長のいい時期に当たったのかは分かりませんが、目線の高さに桜の枝が来るのが特徴的です。
さて、こんなのどかな季節ですが、近隣都県に緊急事態宣言や外出自粛要請が出ましたので今後暫くは巣ごもり生活と相成りそうです。
中舘観音寺
最寄り駅は真岡鐵道の折本駅です。
茨城県立歴史館 佐竹氏展 [茨城]
今年、筆者の中で一、二を争う期待の展示がこの佐竹氏展です。
佐竹氏は源氏の末裔の一族で、鎌倉時代以来茨城県での長い歴史を持つのですが、江戸時代に秋田に転封されてしまったため、秋田の殿様のイメージが強いかも知れません。
しかし、れっきとした常陸の武将です。
この展示ではほとんど注目を浴びることのない江戸時代以前の佐竹氏を取り上げています。
佐竹氏は源氏の一族と言われ、平安末期から常陸国を治めていましたが、この地方の勢力の強かった関東平氏と姻戚にあったため、源頼朝の挙兵時には敵対勢力として対峙しました。
しかし、そのことが仇となり、鎌倉時代は全く日の目を見ませんでした。
茨城県立歴史館の常設展の鎌倉時代のパネルを見ると分かりますが、当時の勢力図には佐竹氏という文字はありません。
その流れが変わるのが足利尊氏の挙兵、すなわち室町時代です。
このときに足利氏側に付いたために、その後は常陸国北部にしっかりとした拠点を気づくことができました。
「関東八屋形」に名を連ねるのもこの頃です。
ところが、一族の内紛も頻発し、安定した状態になったのは16世紀初頭の佐竹義舜の頃です。
もっとも、義舜自身も若年のときは居城を追われるなど辛酸を嘗めることが多かったのですが。
この辺りは宇都宮広綱と似ていますね。
その後、慶篤ー義昭ー義重ー義宣と続き、支配を確固たるものとしていきます。
そして西の那須氏を攻めたり、北の白河氏や蘆名氏に介入したりと勢力拡大をしていきます。
肥沃な南側に進出しなかったのは意外ですが何か理由があったのでしょうか。
そうしているうちに時代は戦国時代の終焉へと向かい、北条氏との対立、豊臣秀吉の関東支配、徳川家康の江戸入府などがあり、佐竹氏は秋田へ飛ばされるのです。
今回の展示ではそうした一連の流れを資料とともに解説しています。
文章系が多いのですが、一番興味深い展示資料は旌幟でした。
軍旗の一種ですが、佐竹氏の五本骨の扇の家紋が描かれた旗を留める“ち”の部分の縫い付けに様々な意匠が施されています。
現代的なダビデの星型もあれば、オセロ盤のような格子状のもの、そして、「叶」と書かれている場所もありました。
(最初変な向きに読んで、「古」とは何が古いのだろうか、と考えてしまいました)
そのような細かな部分でも勝利を願っていたんですね。
やはりというか、全体的に印象の強い資料は少ないです。
秋田へ行ってしまったのか、そもそも残りが悪いのかは分かりませんが、歴代当主の像(絵)なども無かったですね。
当時の関東の状況など、背景をよく知らない人には難しいかも知れません。
ちなみに、上記に書いた佐竹氏の一連の流れですが、展示で示されているのは断片的です。
分厚いですが、図録には非常に詳しく書かれていて、読み応えがありますので購入をおすすめします。
常陸大宮市の甲神社に伝わる源氏系図も全て収録されていますよ。
コロナウイルス禍で各地の博物館が休館になっていますが、茨城県立歴史館はまだ通常通りの開館です。
茨城県に患者が出ていないこともあるのでしょうが、政府も美術鑑賞は控える必要はないと述べていますし、折角の機会を逃すのは勿体ないかと。
ところで、茨城県に患者が出ていないのは納豆を食べているからだという都市伝説があるのですが、本当でしょうか。
茨城県立歴史館 佐竹氏展
~3/22(月休) 9:30~16:30 一般610円 大学生320円
最寄りバス停は茨城交通の歴史館偕楽園入口です。
テセウスの船 in 筑波海軍航空隊記念館 [茨城]
日曜劇場の「テセウスの船」。
毎週胃が痛くなるほどの緊迫した展開に、ドキドキしながら視聴しています。
そんなテセウスの船の舞台は東京と東北地方なのですが、ロケ地の多くは北関東にあるようです。
笠間市にある筑波海軍航空隊記念館もロケ地の一つで、平成初期頃の仙台の警察署として撮影されました。
現在、ドラマの撮影時の様子をそのまま残し、一般公開しています。
記念館の一室に警察署が再現され、それを廊下側の窓から覗く形で見ることができます。
今回はここには提示しませんが、黒板には事件の詳細が張り出されていました。
「ああ、この人は殺されたよね~」と思い出されます。
2階には取調室のセットも作られていました。
結構面白い建物なのですが、使用されているのはこれだけのシーンです。
映像として写ったのはわずかです。
それだけのために、役者さんがここに来たり、セットを作り込んだりするのですから大変ですね。
ドラマは佳境に向かっていますが、このセットがいつまで公開されるかは未定となっています。
そもそも、この筑波海軍航空隊記念館は「永遠の0」のロケ地となったことをきっかけに見直された場所です。
戦時中は海軍の航空隊の練習基地でした。
その後、学校や病院が置かれて今に至ります。
特に、ロケにも使われている司令部庁舎は戦時中の雰囲気を強く感じます。
古さは感じられるのですが、決して老朽化して陳腐な状態であるとは言えない重厚な印象でした。
しかしながら、戦争時はここから特攻隊が出発するなど、悲しい歴史がある施設です。
加えて、敷地を散策すると、その後に作られた精神病院の名残も強く見られます。
格子のついた窓や外から見える部屋の中に置かれたままのベッドなど、こられも別の物悲しさを感じさせます。
様々な人の様々な思いが染み付いた意義深い場所でした。
筑波海軍航空隊記念館
火休 9:00~16:00 500円
最寄りバス停は茨城交通の茨城県立こころの医療センターです。
平沢官衙遺跡 芝焼きで「オリンピック」 [茨城]
つくば市では律令制の地方行政を行っていた役所の跡が2箇所も出土しています。
その一つが市北部にある平沢官衙遺跡で、筑波郡の郡衙(郡家)であったと考えられています。
かつての行政単位は「国ー郡ー里」となりますが、国府の所在地は比較的今でもよく知られていますね。
しかし、その下位の郡ともなるとその中心部は不明なことが多いのです。
この平沢官衙の場所も農地となってしまっていて、町の中心部とは離れていたようです。
時代の移り変わりとともに忘れ去られてしまったのですね。
それが、あるとき発掘調査により大規模な施設の跡があることが分かり、もう一度注目を浴びることとなりました。
この平沢官衙跡には現在三棟の建物が立っています。
それぞれが別の様式の造りのものとなり、校倉造、板倉、土壁双倉です。
三角形の断面の木を組み合わせた「校倉」は正倉院が有名ですね。
「板倉」はその名のまま、板塀の倉です。
対して、「土壁双倉」は土壁の倉です。
(土壁双倉を土倉と覚えていましたが、「土倉」は室町期の貸金業者で、誤っていました(汗))。
違いを生で比べられると分かりやすいですね。
さて、そんな平沢官衙遺跡では、年に1回芝焼きが行われます。
防火訓練を兼ねているのですが、特筆すべきは芝の中に文字を描くのです。
ただのお遊びなのですが、実にそれがいい。
今年の文字は、写真の通り「オリンピック」でした。
夏にオリンピックが来ますね。
それに合わせた今年を代表する言葉です。
どこかに高台があると、文字がより分かりやすいのですけれど・・・。
しかし、まったりとした時間の流れるイベントでした。
平沢官衙遺跡 新春芝文字と文化財防火訓練
1/25 10:00~12:00(2020年実績)
芝文字点火は10:00~、防火訓練は10:30~ 豚汁配布は11:00~
最寄りバス停はつくバスの大池・平沢官衙入口です。
谷田部 五角堂 [茨城]
つくば市は戦後に作られた街のため、今の中心部の歴史は浅く、江戸時代以前の村落の中心部は別にありました。
一つは筑波山の麓の小田城近辺であり、その他には谷田部の周辺などがあります。
この谷田部は江戸時代になると熊本藩細川家の縁戚の大名(細川忠興の弟)の領地となり、栃木県の茂木町などとセットで治められていました。
もっとも、今となっては藩があったと感じられるほどの賑わいはありません。
この谷田部には江戸時代後期に飯塚伊賀七という発明家のような天才が住んでいました。
時計を自作したり、からくり人形を作ったりと、その才能は抜きん出ていたようです。
地図作成にも通じていて、自作の測量機器を作り、谷田部周辺の精巧な地図を書き上げもしました。
それは伊能忠敬に地図作成よりも12年も古いのだそうです。
まさに先駆者です。
しかしながら、必要に迫られなかったことと、幕府がその存在を認識していなかったことから伊能忠敬が全国を測量し完成させた大日本沿海輿地全図のような集大成には結実しませんでしたし、多くの人が知るような有名人にもなりませんでした。
時計堂などの当時の技術のほとんどは失われてしまいましたが、谷田部の町内には伊賀七が建築した奇妙な五角堂が残っています。
これはその名の通り五角形をした建物ですが、説明を読むまで知らなかったのですが、建物を建築する際には対角線上に梁を渡して安定させる必要があるため奇数の角の建物は立てづらいのだとか。
確かに通常は四角形ですし、京都にあるのは六角堂ですね。
そのため、この五角堂は工夫をすることで屋根を支えているそうです。
つくば市は新しい市であるので住宅地の開発も激しく、道も次から次へと作られています。
一方で、谷田部の文化遺産のようなものはほとんど日の目を見ていない印象があります。
まるで高度経済成長期の日本を見るようです。
開発が終わり、ふと我に返ったときに、つくば市の人たちは土地に根付く文化に価値を見出すようになるのかもしれません。
そのようなわけで、谷田部はとても寂しい場所でした。
谷田部の郷土資料館も時代に合わせて更新が必要であると感じました。
(資料館の作りが科学万博の名残のように感じたのですが、気のせいでしょうか)。
折角なのですから、谷田部をもっと売り込んでいくといいと思います。
例えば、五角堂はその五角形と天才の伊賀七を絡めて、合格祈願グッズを売り出すのがいいと思います。
「五角堂を訪れると受験に合格する」、実にいい語呂ですね。
持てる資産を有効活用しないのは、とても勿体ないことです。
いっそのこと、合併しないほうが良かったのかもしれません。
五角堂
最寄りバス停は関東鉄道のバスの谷田部四ツ角です。
私有地ですので訪問の際はご注意ください。
結城晴朝公家督相続460年祭 [茨城]
結城市の郷土博物館である蔵美館が開館5周年を迎え、結城晴朝公家督相続460年と合わせて各種イベントが開催されています。
特に5/25,26には各地の御手杵のレプリカを揃えて、御手杵サミットも開催されました。
本物の御手杵は東京大空襲で焼けてしまったため現存しません。
結城市にも数年前に御手杵のレプリカが寄贈され、蔵美館で常設展示されていますが、特別展ではサミット日以外の日には展示ケースから出てオープンスペースで公開されています。
同時に御手杵の名前の由来となった熊毛の鞘も間近で見ることができます(写真)。
杵の形をした鞘ですが、よく見ると中央部分に熊の顔が見えます。
伺ったところ、鞘を制作するに当たり熊が予想より小さかったために、余すところなく皮を使わざるを得なく、現状の形になったそうです。
したがって、見る角度によっては無理な造形もあるのだとか。
しかし、戦国時代の変わり兜の衣装に通じるところがあり、これはこれでいいもののような気もします。
隣の蔵では特別展示があり、結城晴朝の肖像や位牌、室町期の手紙など貴重なものが展示されていました。
他にも、市内の関連スポットを巡るスタンプラリーも開催されていました。
しかし、今回の展示は総じてゲーム「刀剣乱舞」のユーザーに向けたものの印象が強いです。
蔵美館も御手杵をモチーフとしたキャラクターのグッズでいっぱいでしたし、スタンプラリーのスタンプも街の中のフラッグもキャラクター一色でした。
当然ながら蔵美館を訪れていた人は8割以上若い女性で、同年代の男性は皆無でした。
ゲームの力はすごいですね。
これで結城市の人気も向上すると良いのですが。
ちなみに筆者は御手杵よりも関東八屋形としての結城家に興味があるので、若干他の人と目的が違うかも知れません。
余談ですが、蔵美館の隣にご当地パン屋がありました。
営業日が少ない中、訪問日がたまたま開いている日に当たり、昼の11時オープンの5分前に突如長い行列ができたのが印象的でした。
沢山の種類の凝ったパンが売られていて、オススメです。
その店舗こそ、以前のイベントでマステが売られていた旧黒川米殻店にあります。
パン屋さんの名前は「ムムス」です。
結城晴朝公家督相続460年祭 特別展
~6/5 9:00~17:00 無料
最寄り駅は水戸線の結城駅です。
牛久シャトー [茨城]
牛久シャトーの一部施設が12/28をもって閉鎖されるそうです。
牛久シャトーは聞いたことがなかったので、「そのような施設もあるのか」程度の認識でしたし、「牛久にはシャトーカミヤもあるはずだから、そちらが存続すれば問題ないな」と思ったのですが、その後調べて衝撃の事実にたどり着きました。
昨年、シャトーカミヤは牛久シャトーに名称変更していたのです。
つまり、今回のアナウンスは牛久シャトー=シャトーカミヤの施設閉鎖だったのです。
ということで、せっかくですので訪問してみました。
10時丁度に到着すると、門のところには人影はまばらで、建物も開門直後の静かな雰囲気でした。
歴史を感じる外観を楽しみながら中に入っていくと、スーベニアショップ以外に資料館があります。
先に資料館に行くという選択肢もあったのですが、何やら胸騒ぎを感じスーベニアショップを覗くと、外の静けさとは打って変わって客でごった返していました。
毎日一定量補充しているのでしょうか、棚にはまだクラフトビールも並んでいました。
そこで、急いでワインとビールを購入し、雑貨などを見て回りました。
そして店内を一周しているほんの僅かな時間に、驚くことにビールの棚は空になりました。
すごいですね。
資料館は過去にワインを醸造していた施設を利用した神谷傳兵衛記念館と企業ミュージアムであるオエノンミュージアムがあります。
神谷傳兵衛記念館の写真を見ると明治時代の大山巌などの著名人が訪れていたことがわかります。
また昭和の末期頃までは周辺はのどかな環境だったことが分かります。
オエノンミュージアムの方は、現在の企業について知ることができます。
オエノンという響きからは酒類を扱う歴史ある企業のイメージはなく、何かしっくり来ません。
一方で、メインの業務を行っている合同酒精という名前からは農協みたいな経済に強くない生産者連合体のように感じられます。
どちらも、名前に好感がありませんが、その実すごい企業なんですね。
焼酎の鍛高譚を作っている企業と聞くと、なるほどと思いますし、神谷バーのカミヤと同じであると聞くと、シャトーカミヤと様々なものが線としてつながる気がします。
しかし、そんな企業も人件費などの面で施設を運営し続けることができなくなったということでしょうか。
牛久市は最近イズミヤも撤退し、意気消沈状態になっており、追い打ちをかけるような事態が残念でなりません。
売上の低迷が理由に挙げられていますが、そもそもどれだけ製品アピールができていたのか。
鍛高譚の販路を利用すれば、もう少し普及できそうな気もするのですが。
推しどころのある一品なだけに残念です。
(そもそも自分もこれまで買いに行くことがなかったので強く言えませんが・・・)
ちなみに、オエノンミュージアムにあったノンアルコールビールの「Non da free」はとても興味があります。
スーパーなどで見たことないですが。
牛久シャトー
10:00~17:00 見学無料
最寄り駅は常磐線の牛久駅です。
雨引観音 なぜか孔雀 [茨城]
少し前にテレビ東京の日本の昔ばなしで、戦国時代に古河の殿様の戦乱に巻き込まえれて焼失してしまった寺の話がありました。
その後、鬼たちがやってきて再建してくれたという話です。
その寺は今も残り、名前を雨引観音と言います。
どのような事実が伝説化したのかはわかりませんが、どこかの有力者(ならずもの?)が再建に協力したということでしょうか。
しかし、古河と桜川市の雨引では結構な距離があるような気もするのですが。
享徳の乱辺りを思うと、それだけ大きな戦だったのでしょう。
雨引観音は山道を上がったところの小高い山の中腹にあります。
駐車場からも少し上りが続き、その間に山門があります。
さらに過ぎて先を行くと階段があり、本堂などのある中心部に出ます。
大きな寺ですね。
ちょうど法要の時間にあたったのですが、僧坊から本堂へ回廊を連なって歩く姿は、なかなか他の寺では目にすることはできません。
お土産屋さんなどもたくさん商品がありましたから賑わっているようです。
それにしても、生き物の多い寺です。
山門を過ぎたあたりから望める池には鴨がたくさんいました。
境内にも鴨やアヒルがいて、参拝客が歩いているのを気にすることはなくあちらこちらへ闊歩しています。
池にはたくさんの鯉がいましたし、鶏も枝の上に1羽いました。
そして極めつけは孔雀です。
まさかお寺にいるとは思いませんでした。
境内を自由に動き回り、あるときは写真のようにお堂の欄干に腰掛け、また別のときには悠々と階段を下って境内外へ歩いていくかのように移動していました。
突然現れたら人の方がびっくりして避けてしまいますよね。
もしかしたら、雨引観音名物なのかもしれません。
さほど広くない境内ですが、予想外の遭遇に印象深い記憶を刻みつける寺でした。
雨引観音
8:30~17:00
最寄りバス停は桜川市営バスの雨引観音です。
古河歴史博物館 川戸台遺跡展 古河と鉄 [茨城]
昨年、小山市歴史博物館で古代の鉄関連の展示が行われていました(こちら)。
その説明では古代の小山市や古河市の近辺では製鉄関連の施設が多数あったことが示されていました。
今回は小山市に隣接する古河市での製鉄関連の話です。
古河市では川戸台遺跡という古河公方公園の隣接地で多数の鉄関連遺物が見つかっています。
今回の展示ではその川戸台遺跡がテーマなのですが、正直内容が薄いと感じられました。
メインでは、パネルで鉄の作り方を説明し、鉄滓が多数出土していることを示しています。
しかし、小山市のときのように、古代の鉄の重要性や地域性を述べる説明は一切ありませんでした。
まず、昔からこの地域は鉄関連の遺物が多数見られると伝承されていた、との市史などの記述を抜粋するだけの最近の文献からの記述の報告があり、挙句の果てには、一部屋まるまる使って、「未整理の出土品です」とコンテナを多数重ねて見せるだけのものもありました。
新手の現代アートです。
メインの展示の後半も、古河藩で活躍した刀鍛冶の製品の展示および明治期に隆盛を極めた金物商の八百藤の話と話題が逸れました。
川戸台遺跡とは関係しないでしょう。
川戸台遺跡だけで企画展を作ることに無理があったのでしょうか。
ちなみに、小山市歴史博物館の回で提示した栃木県と茨城県(下野国と下総国)の境界の謎の直線で、結城廃寺と逆側の延長線上は古河市です。
鉄関連製品もしくは物資の輸送ルートと関係があるかも知れませんね。
そしてまた、川戸台遺跡は金山遺跡よりは川に近く、砂鉄の入手ルートの起点かも知れません。
すべてはまだ空想ロマンの粋を出ませんが。
古河歴史博物館 川戸台遺跡展 古河と鉄
~10/8(月休) 9:00~16:30 400円
最寄り駅は宇都宮線の古河駅です。
冒頭の写真は古河歴史博物館向かいの鷹見泉石記念館です。