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横浜市歴史博物館 道灌以後の戦国争乱 [神奈川]

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太田道灌は室町時代~戦国時代の関東の著名な武将です。

事績は知らなくとも、名前だけは聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。

この太田道灌を輩出した太田氏は、岩付城(埼玉県)や江戸城(東京都)との関係がよく知られていますが、何故か今回の企画展が開催されたのは神奈川県の横浜市です。

建前上は家臣だったことのある上原氏の文書を提示することで横浜市との関係を示していますが、展示で上原家文書をあまり目にしなかったような。

そんな強引とも取れる企画展を起こなったことは称賛に値します。

実際、この横浜歴史博物館は以前も吉良氏の展示を行うなど、なかなか面白いところをテーマとするユニークな博物館なのです。


博物館の構成はほとんどが文書の展示です。

中にはパネルでしか示されないものもあり、取り付きにくいのですが、大抵の文書が漢字や仮名に直されて説明されているので、雰囲気は感じ取れます。


太田氏は太田道真・道灌父子の時代に最も活躍しました。

関東管領の上杉氏に楯突いた家臣の長尾景春などは連戦連敗をしてしまうほどでした。

しかし、主君の扇谷上杉定正により道灌が暗殺されると、その後は大きな潮流となることはできませんでした。

では何をしていたか、というのが本企画展の本題です。

大きな系統としては、江戸城の太田氏と岩付城の太田氏があります。

どちらも上杉氏の家臣として当初は活動していたものの、新興勢力の北条氏の進行に抗うことができず、ときに争い、ときに臣下となりという付きつ離れつを繰り返していました。

江戸城の太田康資の流れは早々に北条氏に下ったものの、国府台の戦いでの恩賞に不満があったらしく、その後里見氏と組んで北条氏に敵対しました。

結果的に敗北し、里見氏の内紛に巻き込まれて自害したそうです。

岩付城系の太田氏は、こちらも北条氏の進行に耐えきれず、城主の座を北条氏出身の養子に譲らねばならないところまでいきました。

しかし、太田資正は再起を掛けるべく、常陸の佐竹氏を頼って下っていきました。

その後は、武将として結構活躍したのですが、岩付城を取り戻すまでには至りませんでした。

結果的にどちらも華やかな大名としては残れませんでした。


この展示を見ると、太田氏がかなり大きな領主であったと感じます。

そして、中級程度の素性の良さを持っていたものの、新興勢力の北条氏に蹂躙されました。

大きな括りでは上杉氏(上杉謙信以前の扇谷家や山内家)とほぼ運命を共にしたと言えるのかも知れません。

戦国時代は本当に家名を残すのが大変な時代だったのですね。

こうした、中小の氏族に関して展示を行うことのできる横浜歴史博物館は改めてすごいと思います。



横浜市歴史博物館 道灌以後の戦国争乱

~7/31(月休) 9:00~16:30 一般600円 高大生300円 (常設展共通券 一般800円 高大生400円)

最寄り駅は横浜市営地下鉄ブルーラインなどのセンター北駅です。


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