つい先年まで、複数の博物館で関東の戦国時代についての展示が行われていました。

そこで扱われていたのは、室町幕府の鎌倉公方と関東管領との対立から戦国大名出現についての話でしたが、今回茨城県立歴史館で開催されている展示のテーマはそれより少し前の時代です。

南北朝時代の茨城県域は北朝と南朝がぶつかり合う最前線の土地でした。

最大の原因は南朝方の主要人物である北畠氏が陸奥~常陸にかけて拠点を持っていたことにあります。

また、北朝である足利氏に対する潜在的な不満も背景にあったとのことです。

 

南北朝時代をテーマにした展示なのですが、解説はなんと鎌倉時代に起こった宝治合戦や霜月騒動から始まります。

これにより、 敗者側の領地であった常陸国内には北条氏の所領が増え、豪族達に溜まった不満は鎌倉幕府の討幕運動にも反映されました。

そうして新しく生み出された室町幕府でしたが、関東の一豪族だと言っても過言ではない足利氏が頂点に立っていることにもやはり不満があったのでしょう、南朝側の求めに応じて北畠親房達を援助する勢力も少なくありませんでした。

最終的には幕府軍により討伐され北朝側の勝利となります。

 

ここから関東が迷走し始めます。

南北朝時代末期、下野の小山義政が独自に勢力を拡大し始めたため、鎌倉公方の足利氏満は義政を追討しました。

その後、嫡子の若犬丸は常陸の小田孝朝の元に身を潜めますが、鎌倉公方側に見つかり小田氏ごと討伐されました。

小田氏はかろうじて存続しましたが、小山氏嫡流はこの時点で絶えてしまい、暫くして同族の結城氏の一族が跡を継ぎました。 

小山氏の反乱の背景には、足利氏は小山氏とは同類の一豪族に過ぎないと軽んじる傾向があったのかも知れません。 

 

鎌倉公方が足利持氏の時代になると、鎌倉公方対関東管領や鎌倉(鎌倉公方)対京都(室町幕府)の対立が強くなります。

まず鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉禅秀が対立し、鎌倉を舞台に戦が起こりますが、このときは室町幕府軍と組んだ持氏の勝利となります。

しかし、禅秀側についた関東武士も多く、常陸では暫くして真壁の小栗満重が乱の戦後処理に不満を抱き挙兵しました。

すぐに鎮圧されましたが、潜在的にまだ沢山の火種を抱えていたことが分かります。

一方で、足利持氏自身も室町幕府将軍就任レースに敗れ、新将軍足利義教との関係が(も)悪化します。

持氏は意のままにならない関東管領上杉憲実を討伐するために追討軍を派遣するも、逆に憲実および室町幕府軍に攻められて自害することになります。

残された遺児2人は下総の結城氏に匿われることになるのですが、 結局幕府軍に追討されます。

当事者である結城氏朝、持朝親子や遺児2人は誅殺されました。

しかし、結城家も鎌倉公方足利家も乱当時に幼かったため罪を免れた嗣子が家を存続させています。 

鎌倉公方足利氏で跡を継いだのが、関東の戦国時代の中心人物の一人である足利成氏です。

また、このあと、結城氏と小山氏は互いに養子を送りあったりしているのですが、最終的に江戸時代に置かれた状況はだいぶ異なる境遇と成っていました。

 

一連の流れを見てきましたが、小さな勢力が沢山存在し、出る杭は打たれるの諺のように感じます。

そしてまた面白いことに、反乱を起こしても反省文で許されることがあり、仮に当事者が処分されても、なんだかんだで一族の血縁者がお家再興を成してしまう、今では考えにくいような考え方があります。 

沢山の戦が起こり、一見複雑な時代であるように感じられますが、それぞれの出来事には重要な背景があり、それを理解すると関東地方の南北朝~戦国時代の流れの理解が進むように思います。

展示の表題にありましたが、まさに常陸~下野にかけては戦国時代が100年早く訪れているようです。

 

茨城県立歴史館 常陸南北朝史

~3/21(月休) 9:30~16:30 一般580円 大学生300円

最寄りバス停は茨城交通バスの歴史館偕楽園入口です。

偕楽園の梅まつり期間中の土日は常磐線に臨時に開設される偕楽園駅も便利です。

3/16までの土日には偕楽園駅から無料のボンネットバスの運行もあります。